軍艦島の歴史
日本の近代文化を支えた端島(軍艦島)
1810年(文化7年)ごろ、端島(通称:軍艦島)で石炭を発見。
それから80年ほど経過した1890年(明治23年)、三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘が開始されました。
端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきました。
石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでいました。
当時の人口密度はなんと世界一。東京人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。
島内には、病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並び、島の施設だけで何不自由のない完全な都市として機能していた。
しかし島の半分以上は鉱場。
その残りの土地に病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並んでいたため、建物と建物の間はとても狭く、島全体が家族のように仲良く暮らしていました。
繁栄を極めた軍艦島でしたが、、主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと移ることにより衰退の一途をたどります。
1974年1月15日に閉山、この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となりました。
軍艦島の魅力
多くの人を惹きつけてやまない軍艦島。
その ” 廃墟の島 ” が現在でも人々の好奇心を掻き立てるのは、「島全体が繁栄当時のまま残っている」こと。
廃墟でありつつも、テレビを始めとする家電や生活の名残がそのまま放置され、昭和の生活を実感することが出来ます。
現在、1974年から禁止されていた一般立ち入りは解除され、毎年数多くの人が訪れる廃墟の島が重ねた歴史と魅力を体験してみませんか?
軍艦島の今昔
1974年(昭和49年)、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより端島炭鉱は閉山。
人々は様々な思いを胸に島を去りました。
当時のままの姿で無人島になった端島は2001年(平成13年)、それまでの所有者であった三菱マテリアル株式会社(元三菱鉱業)から正式に高島町へ譲渡され、長崎市の所有となりました。
2008年(平成20年)、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、端島(軍艦島)はますます注目を浴びはじめます。
2009年(平成21年)4月より島への上陸が許可され、観光・見学が可能になりました。
※安全基準を満たした時に限る。
2015年(平成27年)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。